グスクへの道標

沖縄本島のグスク案内サイト
沖縄の各地に残るグスクには、魅力的なグスクがたくさんあります。晴れた日には友達誘ってグスク探訪に 出掛けてみませんか。


ロゴ画像

撮影:勝連グスク

沖縄県:うるま市位置図   

勝連グスク


(カツレングスク・カッチングスク)
所在地:うるま市勝連字南風原

★グスクの概要

  史跡指定:国指定史跡
   世界遺産:琉球のグスク及び関連遺産群

    ・築城者:英祖王統二代目「太成王の五男」
         初代勝連按司

    ・築城形式:連郭式

    ・標高:約63m~93m

    ・面積:約11,867㎡

    写真集を見る(85枚)


●勝連半島の付け根の琉球石灰岩丘陵に築かれた勝連グスクは、一目でその堅固さが分かるグスクです。
勝連グスクは5つつの郭からなっており、一番高い位置にある上グスク(1~3ノ郭)は一つのグスクと見ても いいほどの独立性があります。さらに下グスク(4ノ郭)は5つつの井戸があり、2か所の城門からなっています。 平坦なのは東グスク(5ノ郭)の東方のみと言われたグスクですが、近年の発掘調査で堀切が発見されその堅固 さが照明されています。
・勝連按司
英祖王統二代目「太成王」の五男が最初の勝連按司と言われ五代続いたそうです、六代目が伊波按司の六男で、七・八 代目が浜川按司、九代目が茂知附按司、そして十代目が古英雄「阿麻和利」となっているそうです。
・勝連攻め
中城グスクの護佐丸が滅んだ後、阿麻和利は天下取りを目指して首里グスクを攻めますが、事前に鬼大城と百々踏揚の 知らせで迎え撃つ準備を整えていた首里グスクを落とせずに敗れたそうです。
1458年9月、王はすぐに勝連討伐を命じ、鬼大城を総大将に約三千と言われた兵で勝連グスクを包囲し攻めますが、要害 の地に築かれた勝連グスクは容易に落ちなかったそうです。鬼大城の一計で阿麻和利が討たれ落城するまで、首里の軍勢も 多くの犠牲を出し鬼大城の弟二人も戦死するほどの激戦だったと言われています。(※参考本、与並岳生著書「琉球王女百々踏揚」を参照)


勝連半島の空中写真(1947年)

写真0-2

「沖縄県公文書館所蔵資料」の中の1947年1月に撮影された、勝連半島の空中写真です。現在、「沖縄県公文書館所蔵資料」の写真が公開されています。終戦直後の沖縄が見えます。覗いて見てはいかがでしょうか、懐かしい風景や見た事がない各地の空中写真がいっぱいあります。

勝連グスクの空中写真(1947年)

写真03

1947年の勝連グスクの拡大写真です。城壁遺構が取り壊されて運び出されたままの姿が写っています。

勝連半島の空中写真(1948年)

写真0-2

1948年2月に撮影された、勝連半島の空中写真です。年代により写真の精度が少し違う感じがします。

勝連グスクの空中写真(1948年)

写真03

1948年の勝連グスクの拡大写真で、47年度と48年度の二つの写真を見るとより一層地形が見える感じがします。

案内地図

写真1

勝連グスクは、世界遺産に登録されてから、カーナビ等で分かり易くなっていますが、ここでは与勝中学校を目印に位置を示しています。

概略図

写真2

勝連グスクは、要害の地に築かれているうえに、沖縄でも数少ない井戸を取込んだ、籠城戦に強いグスクとなっています。

写真3

勝連の守護神「玉ノミウヂ御嶽」のある一ノ郭へのグスク道です。

写真4

二ノ郭の前庭と言われる三ノ郭から、二ノ郭(本殿跡)を撮影しました。

写真5

下グスク(4ノ郭)から、見上げた上グスク(3ノ郭)の城壁です。

写真6

上グスク南西側の急傾斜地の城壁です。水抜き穴がみえます。

写真7

一ノ郭から見た勝連グスクは、階段状で堅固さが分る美しいグスクです。

写真8

この三ノ郭の門跡には、木造の四脚門があったと考えられています。

写真9

南風原御門側の復元工事中の城壁の様子です。

写真10

四ノ郭の復元工事中の城壁です。崖に沿って城壁がうねるように積まれています

写真11

復元調査中の東グスクの内部の様子です。石積みの縄張りが複雑だと言われています。

写真12

復元工事中の西原御門の城壁の様子です。

写真12 width=

東グスク(東の郭)から、上グスク(1~3の郭)を望む。


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