資料を元に作成した地形復元図を紹介します。
この地形図の等高線を読み上げて行くと、標高80m(訂正90→80m)付近の等高線が微妙に読み取りにくなりますが、この地形図の中のグスクの標高を、83mと読みましたが、皆さんはどう見えますか・・・・。※この等高線読み取りで、高原交差点からコザ高校辺りの右回りと、高原交差点の西側の一番高い丘陵から、左回りで安慶田方面に出る等高線の読み取りに10mの違いがあり、当初の93m?をを83m?に訂正しました。
この地形図は、98年米軍作成図です。越来グスクの標高地点の等高線が250フィート(訂正77.72→75m)になっています。つまり戦後3年目には、もうグスクの丘陵は18m(訂正15→18m)余りも削り取られている事になります。田んぼだったコザ十字路付近の軍道工事に使われたかもしれませんね・・・
「沖縄島1948年地形復元プロジェクト」の中の「1/4800地形図(1948年)3Dビユー」の越来グスクの丘陵です。丘陵が消滅しています。注目されるのは、三角印の残った地点が、米軍作成の地形図で286フィート(85.8m)になっています。とすれば、中央の主郭と思われるヶ所の丘陵部はもっと高かったということになりますが・・・。※正確な標高が訂正前か、訂正後が分からなくなりました。(。-人-。) ゴメンナサイ。
この空中写真では、越来グスクの丘陵は残っており、コザ十字路の道路はありません。※1945年4月1日嘉手納付近の海岸に上陸した米軍は、翌日、読谷や嘉手納飛行場を占領し進撃を続け、その日のうちに越来グスクを占領し、グスクを拠点に、越来村と美里村を掌握したそうです。つまり、1945年4月2日時点ではグスクはまだあることになります。
この空中写真では、越来グスクが砕石で失われ、コザ十字路の道路が出来ているのが分かります。写真の日付が同じ1945年?になっている事から、凄まじい勢いで丘陵が消滅している事が分かります。
この地形図は、津喜武多グスクの丘陵の標高を、大正8年の地形図と米軍作成の地形図の高さのズレを検証したものです。この地形図では10m余りもズレが出ています。越来グスクの等高線の標高が83mとすると、グスク内にある現在の三角点(83.26m)とほぼ同じ平坦地になり、航空写真に見える主郭と思われる部分の段差がない事になります。また現在残っている住宅地の地盤と同じ高さの位置にあることになり、グスクの地形として有り得ないことになります。この等高線の文字が示す83m?か93m?と、示されている地点がどこか分かれば、スッキリしますが・・・・。
この丘陵の微妙な位置に現在の基準点(吉原)EL=83.28mがあり、現在、住宅地になっている位置にあります。この丘陵の写真からも分かる様に、グスクの丘陵自体が基準点よりも高い位置にあるように思われるますが・・・。そうすると地形図のグスクの標高が83m余りだと・・・頭がおかしくなって来るので考える事をやめます。※この空中写真を画像処理したのが、次の写真ではないかと思いますが・・・。
この航空写真の丘陵と、大正8年測図や1948年米軍作成の越来グスクの地形から、おおよその形が見えてきます。航空写真から丘陵の崖状の所や斜面部分が濃ゆい色になっているので分かります。又、北方向に見える黒っぽい部分は、日差しによる崖の影だと思います。これらのものから判断すると越来グスクは、連郭式ではなく、輪郭式に思えますが、皆さんの判断は如何がでしょうか・・・。※失われた地形の標高が分かる資料があれば・・・。