越来グスク一帯の空中写真
「沖縄県公文書館所蔵資料」の中の1947年1月29日に撮影された、越来グスク一帯の空中写真です。現在、「沖縄県公文書館所蔵資料」の写真が公開されています。終戦直後の沖縄が見えます。覗いて見てはいかがでしょうか、懐かしい風景や見た事がない各地の空中写真がいっぱいあります。
越来グスクの空中写真
越来グスク付近の拡大写真です。1947年1月にはもうグスクの丘陵は消えている事が分かります。
等高線の読み取り
大正8年の測図で、標高約93mの丘陵がここに存在していたことが分かります。これは、大正8年の測図の等高線を泡瀬方面から読み取った地形図です。
等高線の読み取り
この地形図の等高線を読み上げて行くと、標高90m付近の等高線が微妙に読み取りにくなりますが、この地形図の中のグスクの標高を、93mと読みましたが、皆さんはどう見えますか・・・・
等高線の文字の考察
この地形図の等高線の文字を考察して見ました。各地の示された標高文字の9と8の文字の違いです。比べて見ると、やはり93mとしか見えませんが・・・いかがですか・・・。
1948年米軍作成図
この地形図は、1948年米軍作成図です。越来グスクの標高地点の等高線が250フィート(76.2m)になっています。つまり戦後3年目には、もうグスクの丘陵は約16.8m
余りも削り取られている事になります。田んぼだったコザ十字路付近の軍道工事に使われたかもしれませんね・・・
等高線の読み取り
「沖縄島1948年地形復元プロジェクト」の中の「1/4800地形図(1948年)3Dビユー」の越来グスクの丘陵です。丘陵が消滅しています。注目されるのは、三角印の残った地点(外郭)が、米軍作成の地形図で286フィート(87.1m)になっています。そうすると標高93mの丘陵頂部(内郭)はここより5.9m高い事になります。なだらかな丘(外郭と内郭共、西側から東側に向かって緩やかな勾配の丘陵)に郭を配し・・・と言われた事と一致します。
沖縄戦デジタルアーカイブ
この空中写真では、越来グスクの丘陵は残っており、コザ十字路の道路はありません。※1945年4月1日嘉手納付近の海岸に上陸した米軍は、翌日、読谷や嘉手納飛行場を占領し進撃を続け、その日のうちに越来グスクを占領し、グスクを拠点に、越来村と美里村を掌握したそうです。つまり、1945年4月2日時点ではグスクはまだあることになります。
沖縄戦デジタルアーカイブ
この空中写真では、越来グスクが砕石で失われ、コザ十字路の道路が出来ているのが分かります。写真の日付が同じ1945年?になっている事から、凄まじい勢いで丘陵が消滅している事が分かります。
基準点の拡大図
沖縄県地図情報システムの中の「基本基準点」の位置の拡大図です。
現在の基準点の位置
沖縄県地図情報システムの中の「基本基準点」の位置です。これを次の空中写真に重ねて見ます。
現在の基準点の位置
基準点(吉原)EL=83.28mは、現在、住宅地になっている位置にあります。グスクの丘陵(外郭)はここより上の高い87.1m(上記の残っていた286フィート地点)だったと推測され、さらにその上に標高約93mの丘陵(内郭)が存在しています。
米軍の航空写真
米軍の1枚の航空写真を修正したものです。
写真の陰影による丘陵復元図
米軍の1枚の航空写真を修正して陰影を読み取ってグスクの丘陵を復元して見ました。外郭と思われるグスクの丘陵内にもう一つ内郭らしい丘陵が見られ、標高の一番高いと思われる所に殿舎跡の郭らしい柵平地があります。陰影の読み取りは個人差がありますが、自信の程は60~70%位。もしこれがグスクの丘陵に近い形状なら、ご健勝であられる80代後半の人達の記憶を頼りに丘陵の復元図が可能ではないかと思われますが・・・。※単純にグスクの丘陵に城壁を巡らした復元図を削除しました。越来グスクの城壁は単純な構造ではないようです。特に内郭の郭は複雑な感じがします。
丘陵復元図の形状から面積を測定してみました
丘陵復元図の形状をグーグルアースに重ねて、おおまかに面積を測定してみました。写真の形状の丘陵外側下線(崖尻)の面積はおおよそ11,100㎡くらいで、丘陵上部の外郭と思われる所がおおよそ4,500㎡、内郭と思われる所がおおよそ2,700㎡となりました。あくまでも大ざっぱな測定ですが(丘陵の崖尻を含んだ面積だと勝連グスクの1,1867㎡に近い)・・・。※間違っていても参考程度にと思って許して・・・ね。