●「尚巴志王御墓」の位置は、2005年に下記の資料により分かっていましたが、長い間、グスク巡りに追われて未探訪でした。
今回やっと「御墓」を訪れる事が出来感無量です。しかし、この資料から「屋比久子御墓」は道の反対側に位置すると
思い込み、「御墓」の途中で引き返してしまい「屋比久子御墓」の写真は通路途中迄となっています。従ってこの道の先が「御墓」
かどうか分かりませんので位置図に?を入れてあります。間違っていたらごめんなさい。長くなりますが資料
ではサンジャームイとなっていますが「上ヌカー」の標識ではサシジャームイとなっています・・・どっちか???。
「尚巴志王御墓」の位置図
所在地:読谷村(旧伊良皆集落)、現米軍嘉手納弾薬庫。
「尚巴志王御墓」は、現在米軍嘉手納弾薬庫内にあるとされていますが、返還されたのか、又は黙認耕作地になっているのか分かりませんが、自由に入れる状態です。
「尚巴志王御墓」の拡大図
上記位置図の拡大図です。
「尚巴志王御墓」の位置図資料
2005年には、この位置図の資料がありましたが、長年訪れる事が出来ませんでした。
「尚巴志王御墓」へ
国道58号線の伊良皆交差点を恩納方面向けに約100mチョットで右折します。
右折車線に入り、右折します。
右折車線に入り、右折した所でシャッターを切ったら赤い乗用車が入口を塞いで・・・。(´;ω;`)
右折して入った所から約110m位で、左側に「御墓」へ向かう農道への入口があります。真っ直ぐに行くと米軍嘉手納弾薬庫のゲートです。車内から撮影
左側に「御墓」へ続く農道入口があり、先の方に米軍嘉手納弾薬庫のゲートが見えます。
この農道入口を道なりに約800m位進むと「御墓」のあるサシジャームイ(佐敷森)に着きます。又旧伊良皆集落の地図をを見ると国道58号線ををまたいで、入口から約400m位旧伊良皆集落が続いています。
途中の遺跡
農道入口から進んだ右側に、同じような間隔で4ヶ所の拝所やカーがあり、標柱が建てれらています。これは、最初の拝所「殿内火之神」の入口です。
「殿内火之神」の標柱です。
二番目の標柱で「前ヌカー」の入口です。
「前ヌカー」の標柱です。
三番目の標柱で「ウフカー・唐ヌカー」の入口です。
「ウフカー・唐ヌカー」の標柱です。
四番目の標柱で「ユナサモー」の入口です。アシビナーの場所か・・・
石畳の道
四番目の標柱の手前から続く石畳の道です。一瞬、宿道「国頭・中頭方西街道」が頭をよぎりました。
石畳の道は「ユナサモー」の入口迄続いています。もしかしてこの農道の途中々のガッカラー(凸凹)道のある所は石畳の道の跡かもしれません。旧街道?旧集落道路?に興味のある方は歩いて見てはどうですか・・・。※ちなみに琉球国の道路規格を調べたところ、宿道は幅8尺(≒2.42m)以上、両側に幅6尺(1.82m)の予地を置くとあります。幅員合計が≒6.06mということになります。一方脇道は幅5尺(≒1.52m)以上となっています。さてこの古道跡は・・・・。
石畳の道跡を後にして、しばらく進むと前方にサシジャームイ(佐敷森)が見えて来ます。
ナカノ川(米軍地図呼称)と呼ばれる小さな川に架けられた橋の先、左手に「尚巴志王御墓」への入口が開いています。
上記の写真からもう少し近づいた所からの撮影です。
「尚巴志王」御墓入口
「尚巴志王御墓」への入口です。三山を統一し琉球王朝の礎を築いた英雄の御墓です。古琉球の歴史が好きな方なら一度は訪れてみたい所です。
ニービ石の石碑に刻まれた文字を読んで見ました。右側から「道長×六十四間」つまり御墓までの距離115.2m(1間=1.80mとして)、真ん中に「尚巴志王之墓」、左側が「昭和三年×月十八日建設」読めない所は×です。この石碑の欠けた所は戦争前の建設ですので銃弾の跡ではと推測しましたが・・・ちなみに御墓まで、私自身の歩測では226歩(約128m・誤差がありすぎて使えない)程でした。
入口を入り「御墓」へ向かいます。
入口から20m程先に、右側の丘陵に向かう階段があり、「御墓」は意外と近い距離にあるんだと思いました。
階段入口からの撮影です。
階段を登ると、道が平坦状になり奥に続いています。
さらに進むと下りぎみの坂道になります。
先に碑が見えてきましたが、近づくと御墓が2か所あり、側に建つ碑も「尚巴志王御墓」とは記されておらず、むやみに墓の撮影をする気にならず引き返しましたが、後で御墓の側には「東江門中参拝記念碑」が3か所共建てられていることに気づき、ここが「屋比久子御墓」ではなかったかと思いましたが、後の祭り・・・。
気を取り直して入口から、前方の下りぎみの坂道を進みます。
少し進むと視界が開け、丘陵の斜面下を通る道になり、左側には川が流れています。
川の流れを左に見ながら、そのまま上流に向かいます。
川沿いの下草もない小道、「御墓」迄115mチョイ、そろそろ見える頃ですが・・・
前方に見えてきました、右側に手摺りのある入口が。
「尚巴志王御墓」入口です。「御墓」の資料を手にしてから16年が経ちました、何とも言えない気分です。
上記と同じ「尚巴志王御墓」入口です。
碑には、第一尚氏王統、第二代尚巴志王・第三代尚忠王・第四代尚志達王陵墓と記載されています。
陵墓の碑の側には、宮城島「東江門中参拝記念碑」と記載された碑が建てられています。うるま市の宮城島(旧与那城町)の門中だとすれば、三山の流れの一族(伝承を含めて)が住む凄い島・・・
「尚巴志王御墓」です。
「尚巴志王御墓」で、前に左三つ巴の入った香炉が置かれています。「尚巴志王御墓」を訪れる際には、クーデターで第一尚氏が滅ぶ際に、天山陵に収められていた遺骨を守りこの地に隠した「屋比久子と平田子の御墓」(※注 上ヌカーの標識記載文)も訪れる事をお勧めします。
「御墓」から見た入口の様子です。
上記と同じ「御墓」から見た入口の様子です。
「尚巴志王御墓」からの帰りに内部から撮影した入口の様子です。
上ヌカーと平田子御墓
「尚巴志王御墓」入口を出て、「上ヌカー」と「平田子御墓」へ向かいます。
「御墓」入口からすぐ先にある「上ヌカー」とその広場です。大型バスでも駐車出来そうな広場です。
「上ヌカー」と標識です。
「上ヌカー」の標識を拡大したものです。
上記と同じ「上ヌカー」の標識を拡大したものです。「上ヌカー」と「尚巴志王御墓」の説明が記載されています。
「上ヌカー」の全景で、綺麗に手入れされています。
「上ヌカー」の背後の丘陵下に「平田子御墓」への階段入口があり、崖下の「御墓」へ向かいます。
「平田子御墓」への階段入口です。
上記と同じ写真で、向きを変えて撮影した「平田子御墓」の階段入口です。
「御墓」への階段で、右に曲がつて上ると「御墓」が見えます。
第一尚氏王統の「尚巴志王・尚忠王・尚志達王」の遺骨を守った「平田子」の「御墓」です。
「平田子御墓」で、側には、系図らしき碑と宮城島「東江門中参拝記念碑」の碑が建てられています。
「平田子御墓」の側の系図らしき碑です。
「御墓」から撮影した「上ヌカー」の広場です。
「尚巴志王御墓」への道は、地図から喜納方面の国道58号線まで続いており、手持ち資料で「上ヌカー」の上辺りに「屋比久子御墓」があると思い込み探しました。
道路途中に標柱が建てられており、「御墓」の標柱かと思い近づくと「アガタヌカー」の標柱でした。
中に入り、覗いて見ると水を湛えた池みたいな所が見えますが、草が茂り近づけません。
喜納方面へ向かう道路を進みますが、正面は通行止めの看板があり、周りに墓らしきものは見当たりません。
喜納方面へ向かう道路の写真です。道路が雨で洗掘され凸凹が激しく車は通れそうにもありません。
最後に、墓らしきところを探せず引き返し、「上ヌカー」を過ぎた辺りにも石畳の道が残っており撮影しました。旧伊良皆集落跡や「尚巴志王御墓」の周りには遺跡が沢山あるようで、集落の屋敷跡等も探すと一日中でも見て回れないだろうと思われます。