当山方面から見た、浦添グスクの丘陵です。
浦添城跡の案内標識です。
浦添ようどれへの入口です。
2004年の写真で、復元中の浦添ようどれです。
浦添ようどれ背後の崖上にあり、伊波普献の墓の側を通ってグスク内に入ります。
「沖縄学」の父と呼ばれる伊波普猷の墓です。
復元前の西側の城壁で、浦添ようどれの崖上にあります。2004年の写真で、復元された時の写真が何処へ行ったか探し切れず、今回は2004年の写真ばっかりになります。
上記の写真と同じ西側の城壁です。
これも、上記の写真と同じ西側の城壁です。
さて、この北側の城壁ですけど、本来のグスクの城壁ではなかったような記憶がありますけど・・・
上記の写真と同じ北側の城壁です。
南側の崖上の城壁です。
グスク内の写真です。
発掘調査で現れた南側の城門跡付近の城壁です。
上記の写真と同じ、発掘調査で現れた南側の城門跡付近の城壁です。
上記の写真と同じ、発掘調査で現れた南側の城門跡付近の城壁です。
この浦添グスクの城門跡は復元が困難な程、さる大戦等で破壊されており、どういう形状の城門だったか判明するまで時間がかかりそうです。
2004年に訪れた時に、城門跡付近に転がっていた切石加工の石です。見事に加工されています。これは城門に使用されていた石だろうと思いますが・・・
北側の北谷方面が見えます。
南側の首里グスク方面の眺望です。
城門跡付近の前にある、浦添城の前の碑跡です。
浦添城の前の碑跡に出る旧道です。現在、復元された石畳になっています。
グスクの南側の崖下を通り、駐車場へ出る道です。
浦添小学校脇の道路から撮影したグスクの丘陵です。
辺戸の義本王の墓
浦添グスクの歴代王統で、瞬天王統三代目義本王は、英祖王統の英祖に王位を「禅譲」した後、何処へ去ったのか謎に包まれています。伝説も諸説あり、義本王の墓とされる場所も4か所あります。国頭村に三つ、辺戸集落の近くの玉御殿と、伊地集落の東北海岸沿いにある俗称「テイチバー」一つ墓と呼ばれる所、それから佐手にもあるそうです。もう一ヶ所は北中城村のナスの御嶽と呼ばれる所です。ここでは辺戸の玉御殿と呼ばれる義本王の墓と北中城村のナスの御嶽を案内します。 拡大します。
辺戸の義本王の墓
義本王の墓の位置図
国道58号線沿いの義本王の墓(玉御殿)への入口で、辺戸公民館から辺戸岬向け約130m位先の左側にあります。
入口の階段脇に建てられた、案内標識です。
階段を上った所から、緩やかなS字カーブを描くように石畳の道が続きます。
緩やか勾配のついた道が続きます。
丘陵の斜面にある道を進みます。
途中で転落防止の擬木柵のついたコンクリート舗装の小道に代わります。
コンクリート舗装の小道が途切れる辺りから、更に丘陵の斜面に向かって石畳の道が続きます。
石畳の道の先に、石積みと標識が見えてきました。
義本王の墓の前の広場と標識です。
義本王についての説明と墓の構造等が記載されています。
標識の中の墓の平面図です。
仏教建築の影響を受けたとされ、家形の独特な外観をもつ建造物になっています。1983年に国頭村指定文化財(建造物)に指定されています。
家形の独特な形をもつ義本王の墓(玉御殿)です。2013年に2月に、同村教育委員会より記録保存や改修工事の為の内部調査が行われています。※出てきた人骨の種別や年代の調査を行うとありましたが、現在、調査報告が聞かれません、義本王時代のものであれば、瞬天王統の実証ができるかもしれませんし、義本王の謎が解明されるかもしれません、期待しましょう。
辺戸の阿須森御嶽
義本王の墓の背後にある、辺戸の阿須森の全景です。琉球開闢七御嶽の一つ阿須森御嶽(辺戸御嶽)があり、この岩山自体が聖域とされています。ひれ伏したくなるような雰囲気の岩山です。 拡大します。
北中城村のナスの御嶽
北中城村のナスの御嶽は、ホテルコスタビスタに向かう途中の道路沿いにあります。安心して行ける所です。 拡大します。
道路沿いに面した、ナスの御嶽です。ここも又、独特の作りの墓の様式に見えます。
瞬天王統の三代(瞬天・瞬馬順燕・義本王)が祀られているという伝承が残る御嶽です。
ナスの御嶽の標柱と標識です。
ナスの御嶽の標識で、御嶽についての詳細が記載されています。
入口の背後にある、琉球石灰岩の大岩が御嶽のイベで(神名:ナスツカサ御イベ)と称されています。
上記の写真と同じ、御嶽のイベです。標識の記載によれば、北中城村史で義本王は王妃御墓に葬られたとされていますが、王妃御墓の調査が行われたかどうか、興味があります・・・。ちなみに王妃御墓は、ナスの御嶽から北西に直線距離で約200m位の位置の丘陵にあります。最後まで、お疲れ様でした。