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市町村別グスク一覧(各市町村の間切り時代の説明入り)

北部 中部 南部

市町村の分類

北部: 国頭村 大宜味村 名護市  今帰仁村 本部町 宜野座村 恩納村 金武町

中部: うるま市 読谷村 嘉手納町 北谷町 沖縄市 宜野湾市 北中城村 中城村 西原町 浦添市

南部: 那覇市 南風原町 豊見城市 南城市 八重瀬町 糸満市


国頭村

かつての国頭間切りは、大宜味間切りまでをその支配下におさめる領域でしたが、1609年に行なわれた検地 でその石高は、沖縄本島の間切りの中でも下位のほうだったといいます。領域の割に耕作面積が少なく先人の苦労が 偲ばれます。※琉球の石高:薩摩藩による琉球侵攻(1609年)の後で行われた検地で、琉球王国の石高は約9万石 と言われています。
・国頭按司
一説では、国頭按司の居城は根謝銘グスクだったといわれる。 国頭按司の名が初めて文献に現れるのは、北山滅亡の1416年だといわれ、北山討伐に名護・羽地按司と共に中山軍に 加わったので、その後長く国頭按司として続いたそうです。

※ひとり言・・そう言えば、昔の修学旅行の定番は、万座毛→轟の滝→ 名護のヒンプンガジュマル→双葉荘で一泊→今帰仁の馬場跡→今帰仁グスク→茅打ちバンタ→辺戸岬とこの国頭村が終点 だったと覚えていますけど、・・何か抜けている気がしますが・・・

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グスクの位置図

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国頭村

グスク名所在地グスクの現況・その他
アマングスク国頭村字辺戸未訪、位置確認出来ず
奥間グスク国頭村字奥間探訪、拝所有り



大宜味村

大宜味間切りは、尚貞5年(1673年)に国頭間切りと羽地間切りからその領域を割いて 新設された間切りで、明治41年(1908年)に村政に移行し、大宜味村となります。
又、現在の地名、謝名城・田嘉里ですが、謝名城が根謝銘村・一名代村・城村が合併して謝名城となり、 田嘉里が親田村・屋嘉比村・見里村が合併して田嘉里という地名になったそうです。


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グスクの位置図

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大宜味村

グスク名所在地グスクの現況・その他
喜如嘉グスク大宜味村字喜如嘉未訪、入口確認
根謝銘グスク大宜味村字謝名城(小字城)探訪、遺構残る
石グスク大宜味村字津波未訪、果樹園内
津波グスク大宜味村字津波探訪、拝所迄

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名護市

現在の名護市は1970年、近隣の1町4村(名護町・羽地村・屋我地村・屋部村・久志村)が合併し出来たそうです。
かつての名護間切りは、尚貞5年(1673年)に名護間切りからその領域を割いて久志間切りが新設されるまで、 久志・東の両村にまたがる間切りだったそうです。その名護が国頭地方の中心地になるのは、明治15年(1882年) に国頭地方役所が羽地間切り親川村から名護間切り大兼久村に移転してからだと言います。

※ひとり言・・いつの頃から聞かなくなったのか思い出しません、 名護の七曲り、ヒートドオーイ、驚きの滝、羽地ターブックヮ・・・

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グスクの位置図

全図2!


名護市

グスク名所在地グスクの現況・その他
アマ(屋我地島)グスク名護市字屋我墨屋原未訪、
デーグスク名護市田井等(田井等公園側)未訪、入口確認出来ず
屋我グスク名護市字屋我阿太伊原探訪、遺構残る
嘉陽上グスク名護市字嘉陽小字嘉陽原探訪、拝所有り
源河大グスク名護市字源河桃原探訪、拝所有り
久志グスク名護市字久志前田原未訪、進入不可
真喜屋グスク名護市字真喜屋拝原探訪、拝所有り
親グスク名護市字川上未訪、進入不可
親川グスク名護市字親川探訪、拝所有り
仲尾次上グスク名護市字仲尾次仲尾次原探訪、拝所有り
名護グスク名護市字名護城原(名護城址公園)探訪、遺構残る

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今帰仁村

北山の拠点地である今帰仁村は、現在に近い形になるまでは、本部半島一帯を占める大間切りだったと言います。 1666年に伊野波間切り(後に本部間切り)に、次いで1736年に羽地間切りにその領域を割いたため、現在に 近い形になったと言われております。又、現在の地名、今泊・諸志は、今泊が今帰仁と親泊が合併し、諸志は志慶真 と諸喜田が合併し改称したそうです。

※ひとり言・・今帰仁と言えば、沖縄では美人のことを「今帰仁ウカミ」 と呼んでいた記憶がありますが・・・

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グスクの位置図

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今帰仁村

グスク名所在地グスクの現況・その他
ウチグスク今帰仁村字玉城未訪、位置確認出来ず
シイナグスク今帰仁村呉我山探訪、遺構残る
ターラグスク今帰仁村上原未訪、進入不可
ハナグスク今帰仁村字仲尾次未訪、位置確認出来ず
ミームングスク今帰仁村字今泊探訪、遺構残る
古宇利グスク今帰仁村古宇利島探訪、遺構なし
今帰仁グスク今帰仁村今泊ハンタ原探訪、世界遺産

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本部町

本部間切りは1666年に、今帰仁間切りから分離し新設された間切りで、当初、その名は伊野波間切りと呼ばれた。 そして、その翌年に本部間切りと改称されたそうです。
本部町の町制への移行は昭和15年で、良港の渡久地港を中心に発展しました。又、本部町が一躍有名になるのは1975年に開催された 「国際海洋博覧会」会場に指定されてからであったといわれます。※後ろに、きれいな八重瀬岳の桜並木2枚。


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グスクの位置図

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本部町

グスク名所在地グスクの現況・その他
陣グスク本部町伊豆見探訪、按司墓迄
山川チヂグスク本部町字山川(海洋博公園内)探訪、位置確認出来ず
アメラグスク本部町大小堀未訪、位置確認出来ず
瀬底グスク本部町字瀬底前原(瀬底島)探訪、入口拝所迄
備瀬グスク本部町備瀬歯毛端原探訪、拝所迄
富盛グスク本部町具志堅未訪、位置確認出来ず
本部具志川森グスク本部町字渡久地比久原探訪、拝所あり。八重岳の桜並木2枚

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宜野座村

宜野座村は1946年に出来た比較的新しい村で、金武村から宜野座、惣慶、古知屋(現松田)、漢那が分かれて 出来たそうです。古くは沖縄最初のお茶の栽培地といわれ、現在では、阪神タイガースの春季キャンプ地でその名を 知られています。


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グスクの位置図

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宜野座村

グスク名所在地グスクの現況・その他
漢那グスク宜野座村漢那グスク原未訪、位置確認出来ず
大川グスク(宜野座村)宜野座村宜野座(宜野座ヌ古島遺跡)探訪、遺構残る

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金武町

かっての金武間切りは、名護市久志のほとんどと、恩納村、宜野座村を含む広大な間切りだったそうです。後に、恩納と久志 間切りが新設され、さらに宜野座村が分かれて現在の形になったそうです。
これだけの広大な領域を持ちながら、実在していたであろうとする按司の名が、文献や伝承もないというのが不思議な位です。金武 按司の名が知られるのは、第2尚氏の時代になってからだそうです。

※ひとり言・・思い出しました。修学旅行の定番の中に金武観音寺と金武の大川 が入っていました、それから沖縄県の移民の父で有名だった「當山久三」さん・・私事ですが金武食堂のチーイリチャー・・・

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グスクの位置図

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金武町

グスク名所在地グスクの現況・その他
金武グスク金武町字金武探訪、 門石残る。

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恩納村

恩納村は読谷村~名護市まで延びる細長い村です。しかし、現在ではビーチを伴うリゾートホテルが立ち並び、残波岬、 真栄田岬、万座毛等の名勝地が多いうえに、沿岸部は「沖縄海岸国定公園」に指定されている程美しい海岸線を持つリゾート地と なっています。
・恩納間切り
昔の金武間切りと読谷山間切りから、その領域を割いて1673年に新設された恩納間切りが、そのまま村政に移行して 現在の恩納村となっているそうです。


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グスクの位置図

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恩納村

グスク名所在地グスクの現況・その他
イチグスク恩納村字前兼久未訪、位置確認出来ず
ガジャグスク恩納村真栄田 未訪、位置確認出来ず
アンナーグスク恩納村宇加地探訪、洞穴と拝所有
恩納グスク恩納村太田探訪、拝所残る
山田グスク恩納村字山田探訪、遺構残少し残る

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