前原高校から与勝向けに進んだ先の金武湾港入口交差点です。海中道路向けに左折します。
同じ金武湾港入口交差を左折して、海中道路向けに約860m位進むと左側にグスクへの入口があります。
具志川グスクへの入口です。矢印方向へ入ります。
県道37号号線沿いの入口を、金武湾港入口交差点に向かって撮影したものです。
2004年に撮影した具志川グスクの丘陵の写真です。
上記の写真と同じ位置から2020年6月に撮影したものです。盛土で嵩上げされたヤードがグスクの近くにありま。
上記の写真と同じ具志川グスクの丘陵です。民家も近いし資材ヤードも側にあるので、少し安心感があります。
県道37号線沿いの入口を通り過ぎてから撮影したもので、手前にエビの養殖場とお寺が見えます。
2006年に撮影したグスク入口です。
上記の写真と同じ年のグスク入口です。
上記の写真と同じ位置から撮影したもので、2020年6月の撮影です。
標識には、具志川グスクと具志川グスクの壕についての説明がなされています。
2003年10月の写真で、この時は足を踏み入れる事すら出来ませんでした。
3年後の2006年には、入口が伐開されて綺麗な状態になっていました。2020年6月現在、グスク内は草が少し伸びている位で見学OKの状態です。
グスク入口から城門跡へ向かう道です。石段跡が崩れています。
上記の写真を少し進んだ所で、左側の岩の上に道が続いています。
城門跡へは、大きく左側に曲がり進みます。
上記の写真と同じ位置からタテ撮りした写真です。
上記の写真の位置から振り返って撮ったグスク入口の写真で、奥に民家が見えます。
具志川グスクの城門跡です。
上記の写真と同じ城門跡です。
城門跡の脇に残る城壁です。
城門跡からグスク内に入ると、真っ先に目に飛び込んでくる「ナームイの御嶽」です。
「ナームイの御嶽」前から城門の方向を撮影したものです。
「ナームイの御嶽」の左側の状況です。
城門を入った広場の右側崖沿いの状況です。残念ながら、崖崩れで消失したのか?元々存在しなかったのか?城壁が見えません。
「ナームイの御嶽」に向かって右側に一段と上がった広場があり、主郭と思われます。
主郭と思われる北側に、丘陵の奥とを仕切る様な土手があり礫状の石が見られます。此処に城壁が存在した感じがしますが・・・・
上記の土手下に降りて、奥の広場を撮影したものです。この頃までは中に入れたのに・・・入って見なかった事を後悔しています。
城門跡の横にある城壁です。
上記と同じか所の城壁です。
上記と同じか所の城壁で、城門跡へ登る途中にある城壁です。崩れて散乱しています。
城門跡から「ナームイの御嶽」へ向かって続く、西側崖沿いの城壁です。
上記と同じヶ所で原形を保っている城壁です。
上記と同じヶ所の城壁です。
帰り道で、城門跡から撮影したものです。
城門跡からの帰り道を撮影したものです。
城門跡からの帰り道を撮影したものです。
城門跡からの帰り道を撮影したものです。右側下にグスク入口が見えます。
グスクの丘陵を北側から撮影したものです。矢印が「ヒチナハガー」の位置です。
グスクの北側、海岸沿いに用水井とみられる「ヒチナハガー」があります。
拝所になっています。湧き水ケ所は見当たりません。
按司墓と具志川グスクの壕へ
具志川グスクの入口から、丘陵の西側崖下に「按司墓」と集団自決の地の碑への道があります。
グスク入口から入って、10数メートル先の右側に「天願按司の墓」があります。
さてこの「天願按司の墓」は、初代安慶名大川按司の二男か?、2代目安慶名大川按司の三男か?知りたくなってきました。
集団自決の地の碑へへ
「天願按司の墓」の側を通って奥に進みます。
この道の右側に無数の壕が構築されていて、さる大戦を物語っています。
先に進むにつれ、聖域の雰囲気が増して来ます。
先にコンクリートの墓が見えます。
振り返って見たコンクリートの墓です。
さらに先に進みます。
見えました、集団自決の地の碑です。右側が御霊を弔った墓でしょうか?
墓の周りの崖が黒いスス状のようになっています。これは火炎放射器によるものと思われ激戦地を物語っているようです。
この碑は、亡くなった若い世代の御霊を慰め、かつ、恒久の平和を願い建立されたと記載されています。