島尻大里グスクの位置図
島尻大里グスクの位置図です。 ~拡大します。
島尻大里グスク
まず最初に、掲載出来なかったグスクの写真を見てもらいます。南山神社の入口。
大正時代に建てられた南山神社の鳥居と神社。
鳥居の横に建てられたグスクの標識。
この拝所は小学校の建設時に、周囲にあった拝所をまとめるために作られたものだそうです。
本来のグスクの城壁で、東側に僅かに残る野面積みの城壁部分。
現在、道路沿いに見られる切石積みの城壁は、大正時代に積み替えられたものだそうで、この写真は給食センターの道路向かいからの撮影。
左記の写真の城壁をグスク内から見たもの。
小学校と中学校の間の道路から見た写真です。
和解森(ワダキナー)
集落内道路で、大里駐在所の方から見た和解森(ワダキナー)入口です。
自動販売機の横から入ります。
コンクリート通路前方の森が「和解森」になっています。
小さな森の入口に建てられた「和解森」の標識。
標識を拡大したものです。大里按司の娘と源為朝が人目を偲んであった場所と記されています。
標識の背後の小さな広場に村の拝所「カニマン御嶽」が見えます。
村の拝所と言われるカニマン御嶽。
道路沿いにある、もう一つの拝所側から撮影したものです。
左記と同じ写真で、道路沿いから撮影したしたものです。
伝説の「嘉手志川」へ
グスク下の県道7号線沿いから見た「嘉手志川」の風景。
高嶺郵便局のある通り沿いにある嘉手志川の入口。
左記と同じ嘉手志川入口です。
入口から中に入ると右側に嘉手志川の石碑があります。
嘉手志川の背後から見た写真です。湧き水が豊富で水が透き通っています。
いつもなら子供達の水遊びの歓声が聞こえていそうですが、、コロナの影響で水遊びが禁止されているみたいでひっそりとしています。
「嘉手志川」と島尻大里グスク
嘉手志川から見える島尻大里グスクです。南山滅亡の原因ともなった嘉手志川、歴史を感じる瞬間です。
南風原按司守忠の御墓へ
南山グスク落城のおり、敵軍の囲みを破って逃げ延び、南山の末裔の祖となった「南風原按司守忠の御墓」へ案内します。 ~拡大します。
南山崩れの道(推定ルート)を見る
具志頭ドライブイン前のバス停辺りから撮影した御墓への入口で、左側の丘陵がミドリグスクになっています。
御墓への入口を正面から撮影したもので、右側に標柱が二つ建てられています。
道路右側にある標柱です。
坂道を上ると道路が二手に分かれており、右側が八重瀬メモリアルパークで、御墓へは左側の道を辿って行きます。
南山史の一ページを飾る南風原按司守忠の御墓入口、手入れの行き届いたきれいな墓です。
立派な説明板で、墓の由来等が詳しく記載されています。
伊舎堂墓の由来
この南風原按司守忠の御墓は、文献に伊舎堂墓として「具志頭村字具志頭の白水河の近方志保志原にある墓で、南山王最後の他魯毎王の弟、南風原按司守忠(唐名阿衡碁)の墓・・・」と記載されており、伊舎堂墓としての名が知られているようですが・・・
南風原按司守忠と花城親方守知の墓の説明板です。
御墓の敷地内です。
南風原按司守忠の御墓です。※阿氏一門は、前川・太田・照屋・西平等(伊舎堂墓の由来碑に分家記述)に「守」の頭文字のつく人々に当たります。
御墓入口から撮影したミドリグスクの丘陵です。間に国道331号線が走っているとは思えないほどの近さです。メモリアルパークの事務所等があり、安心して訪れる事が出来る環境になっています。